ギルフォード博士の子どもに自信をもたせる育て方―大人が子どもの意欲を奪っている―

公開日: 教育 子育て 本紹介

子どもに自信をもたせる_画像

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「ながら授乳」はよしましょう


「目は口ほどにものを言う」ということわざがありますが、赤ちゃんの目をじっと見つめながら、心の通い合いを積み重ねることを心がけたいものです。母乳を与えるときも、ほ乳瓶でミルクを与えるときも、テレビを見ながらとか、週刊誌を読みながらの「ながら授乳は断じて避けなければなりません」

抱き癖は悪くない


 昭和四十二(1967)年までの母子手帳には、「抱き癖をつけない」と記されていました。私が講演会で「抱き癖をつけなさい」と強調すると、 「それはいけないことだと、母から教わりました」 というお母さんたちの反論をよく聞きます。 

 育児は、社会のありようやしくみ、文化的な背景や政治的な背景を抜きにしては語れません。それは、人間は社会的存在ですからやむをえないころですが、戦後の日本にはアメリカの考えかたや文化がそのまま輸入され、アメリカナイズされてきました。

 そしてそれを金科玉条のように受け入れてきました。 アメリカでは、子どもの生活より夫婦の生活が優先です。したがって、生後一年で子どもは子ども、親は親の生活を子どもに強いています。

 住宅事情にもよりますが、日本の場合、多くは同じ部屋にいわゆる川の字で寝ます。日本は、親と子の絆がきわめて強いのです。 子どもは、お母さんの胸にぎゅっと抱かれて、全身全霊を宅していく。お母さんもまた、子どもにおっぱいを含ませたり、抱きしめたりすることで幸せを共有する。

 そのなかでしっかりとした一体感が創出されていきます。 赤ちゃんが泣いてお母さんを呼んでいたら、抱っこしてあげてください。そして、赤ちゃんの目を見つめ、話しかけてください。 子どもの自立は、抱き癖をつけることからはじまるといっても、過言ではありません。

子どもは三年おきに産みなさい


「じょうずな子育てをしたければ、子どもは三年おきに産みなさい」 

 これは、乳幼児の発達や教育について研究した元ハーバード大学教授のバートン・L・ホワイト博士の言葉です。 「三歳まではお母さんと子どもが一体になって、密着して過ごす時機。母子一体感の時機だ。これを充実させた子どもは弟妹の出現にもたじろがないですむ」 とホワイト博士は言っています。 

 ここでいう三年おきに産みなさいということは、きちんと三年間あけなさいという意味ではなく、三歳までに子どもの心のなかに、安心感の根をしっかり下ろすようにしましょうという意味です。 母子一体感は、子どもの情緒を左右します、情緒の安定が、意欲の根源となるといってもいいでしょう。

 母子一体感、情緒の安定、意欲。この三つは関連し、重なりあっているものです。どれかひとつだけあればいいということではありません。

幼児期には好奇心を引き出すことを第一に


 好奇心が学ぼうとする意欲につながります。知らないことに興味をもったり、関心があるからこそ学べるのです。

三大禁句「早くしなさい」「だめ」「がんばれ」


 アドラー心理学では、意欲をくじく三大禁句として「早くしなさい」「だめ」「がんばれ」をあげています。これらはいずれも、相手に命令し、指図する言葉だから、子どもの意欲が消えてしまうのです。 「早くしなさい」の代わりに「急いでほしい」、「走っちゃだめ」の代わりに「ゆっくり歩こう」、「勉強しなきゃだめ」の代わりに「勉強してほしい」……。「こうしなさい」と叱るのではなく、「私はこう思う」という言いかたに変えるだけで子どもは変わってくるはずです。

子どもの感動をしっかり受け止めともに感動しあい、喜び合あおう

 アリの行列を、じっとしゃがみ込んで見ていた子どもが、急に大声をあげて、 「ママ、これなんていうアリ?」 と質問してきます。

 「アリはアリでしょう」 と、つい出かかった言葉を、 「そうね、なんというアリなのかしらね」 と、子どもの驚きをいったん受け止めてあげると、 「ママ、図鑑買ってよ」 と、子どもにせがまれるかもしれません。 

 卒啄同時、あうんの呼吸、グッドタイミング。そう、こういうときに買い与えられた図鑑は、きっとボロボロになるまで使われるにちがいありません。 「質問の多い子は伸びる」と、よく言われます。「学ぶ」という動機は、知らないから知りたい、わからないからわかりたい、できないからできるようになりたいということです。 

 子どもの気持ちに、いっしょにしゃがみ込むという形でよりそっただけで子どもの心の世界は、こんなにも大きな拡がりを見せるのです。

子どもに多くの感動を与えよう

 多くの若者が、親に依存したままの生活をつづけたり、あるいはすぐムカつき、キレてしまったりするのは、感動する体験が幼児期にあまりにも少なかったからにちがいないと思うのです。 子供たちが本来もっている感動するエネルギーが、どうして押しつぶされてしまったのか、まず大人が考えなくてはいけない問題ではないでしょうか。

過保護について

「そこからのぞいてはいけないでしょ!」 「カバンをおろしなさい!」 「もう、こっちに来て座っていなさい!」 「過保護」的なかかわりが強すぎると、子どもはすべてが受け身になります。自分から積極的に行動しなくなり、新しいことに挑戦しなくなります。一見、引っ込み思案といわれる子どもたちも、こうした背景をもっています。

 大人でも子どもでも、人生は冒険です。道への挑戦、ロマンなのです。人生は先に何が起こるかわからないから、楽しいのです。出会いの不思議さや、苦労を重ねた後の成功の喜びといった「生きる幸せ」を、幼児期に奪われた子どもは、受け身的に生きていくことになりかねません。

過干渉について

 子どもが友だちのところに遊びに行こうとすると、 「どこへ行くの?」 「○○ちゃんと遊んではいけないと言ったでしょ」 「帽子をかぶっていきなさい」 「上着を持っていきなさい」 「宿題が終わってからにしなさい」 「五時に帰ってこないとだめよ」 

 子どもは命令語や指示語、禁止句と、二者択一の許可のあいだにおかれると、ひとつひとつの行動にそのつど、「やっていい?」「食べていい?」と親の判断を訊ねる、自立できない子になってしまうのです。 「お母さん、きょうはズボンをはいたほうがいい? スカートのほうがいい?」 こんなふうに聞かれて、 「五年生にもなって、それくらい自分で考えなさい」 と言っても、後の祭りです。

体罰は一時的には効くが心に残る副作用が大きすぎる

 いじめっ子の八割は、家で親に叩かれているというデータもあります。子どもを叩いて育てると、その子どもも人を叩いてあたりまえと考えるようになってしまう。 「静かにして」と言っても聞かなかった場合、子どもを叩けば、そのときは静かになるでしょう。だれが見ても、たしかに効果があるようです。

 でも、良く効く薬ほど、なんらかの副作用があるのと同じように、体罰もいろいろな副作用をもたらすのです。 第一は、永続性がないことです。体罰を与えると、その場ではたしかに言うことを聞きます。でも、また必ず同じことを繰り返すのです。 

 第二は、体罰を与える人がいるときだけしか効果がないこと。親の前では素直に言う事を聞き、親がいないとハメをはずす子どもがいますが、これは親が怖いからです。 

 子どもを恐怖から動機づけると、親や特定の人の前でだけ言うことを聞きます。そして、弟や友だちをいじめたり、やられたら必ずやり返すようになります。親の前でいい子にしている鬱憤を、必ず自分より弱い者に向けていくのです。

本は何度も繰り返し読んであげてこそ満足する

 子どもに本を読んであげると、きまって「もう一回」とリクエストされます。 「いま読んだばかりでしょう?」 と言っても、また「もう一回」とゆずりません。 このしつこいくらいのおねだりがいやだから、お母さんは子どもが「本を読んで」と言ってくると、読む前に、 「一回だけだからね」 と念を押します。

 または、 「これを読んだら必ず寝るのよ」 と言いながら、恩着せがましく、いやいや読んであげたりしてしまいます。 でも、本が好きになる手がかりは、幼児期にあります。本を読んであげることを抜きにして、子どもが本を好きになる道はないのです。 「もう一回」とリクエストしてくる子どもは、じつはすばらしい意欲と集中力をもった子どもなのです。

 子どもが五~六歳になって「本を読んで」と言ったとき、お母さんは、「もうひとりで読めるでしょう?」と突き放さないこと。 

 子どもが本を読んでほしいというのは、抱っこと同じように、お母さんの愛情の確認のようなところがあるのです。「ひとりで読めるでしょう?」という言葉は、抱っこをおねだりした子どもが、「あとでね」の言葉で拒否されることと同じなのです。 

 また、自分で字が読めることと、本の世界に入り込んでいくこととは、まったく違うものです。

レッテルを貼らない


「言う事を聞くいい子は、うちの子。言うことを聞かない子は、うちの子ではない」 このようなレッテルを貼ると、子どもはいつか反抗するようになります。親が理想の子ども像を勝手にイメージして、そのとおりに子どもを動かそうとする過支配そのものだからです。

 子どもは親の付属物ではありません。自分を支配する者への憎しみや抵抗のあらわれが、思春期の非行や家庭内暴力といってよいと思います。 あるがままの子どもを受け入れ、無私の愛、代償を求めない愛を子どもに与えましょう。

禁止句やだめ言葉を使う代わりに、協力をお願いする言葉

 たとえば、子どもが勝手に教室から出ていこうとしたり、手を洗いにいこうとしているときは、「終わってからにしようか」とか「終わってからにしてくれるとうれしいんだけどなあ」というような言葉かけをします。 そうすると、言葉がすんなりと心に入っていって、子どもは素直に要求を受け入れてくれるのです。

 また、「○○してくれるとうれしい」とか「○○してくれると助かる」という言葉かけは、親子のコミュニケーションに非常に役立ちます。 テレビに夢中になっているわが子に、いきなり、 「テレビを消して、おつかいに行って!」 と命令するのは、あまりにも一方的な親の要求です。子どもが好きな番組を見終わるまで待って協力を依頼するのが、たとえ子どもであろうと礼儀だと思います。 


 これは、夫婦でも同じです。仕事に追われているお父さんに、 「たまには子どもを動物園にでも連れていってよ!」 と責めるような言いかたをしてもなかなか動いてくれませんが、 「仕事が忙しくてたいへんなのはわかっているんだけど、今度の日曜日に子供たちを動物園に連れていってもらうと助かるんですけど」 という言いかたに変えれば、おとうさんは、 「来週は無理だけど、来月はなんとか段どりしてみよう」 と応じてくれるかもしれません。

言葉にかぎらず、親子関係は相手を尊敬するかどうかが重要

 尊敬とは相手の立場に立つということです。「子どもより親が偉い」とか「親の言うことを聞きなさい」というのではなく、対等な人格として向きあうことです。 子どもの感じかたや考えかたをまるごと肯定し、受け入れていく。子どもの強さを信頼する。子どもの喜びや悲しみを、自分の喜びや悲しみとする。

 そうした気持ちの向かいあいがなされると、かける言葉もおのずと変化してきます。 そして、子どもは自分で考えようとし、困難を克服して考えを深め、広めていくことができるようになるのです。 子どもとの信頼関係を築くことは、子どもが子どもらしく、人間らしく生きていくための、心の基礎づくりだということを自覚したいものです。

追記
 大人の何気ない言葉が子どもの意欲を奪い可能性を潰している。子育ての本を読むようになってこのように思うようになりました。 もちろん、子どもに対してだけじゃなくて上司部下の関係、夫と妻の関係、友人関係、様々なことに共通していると思うのですが。 

 しかし、親が子どもと接する時間というのは人生の基礎をつくる一番重要な時期ですから、よりいっそう真剣に考える必要があると思います。子どもに気を使うというのではなく子どもを尊重する。そのような心構えをもつことが大事だと思いました。

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